『未観測Heroines #54』 /小説/長編
♯54
掴んだ手を離さないのは、いいとして――
「お、おおお」
間一髪、『手首』を握り止めることに成功したあとは、見来のほうから、俺の右腕にしがみつく、格好となる。
自殺しようってわけじゃないので、当然だ。
左腕はというと、うまい具合に木の根っこを掴むことに成功していたが、それもいつまでもつか。
「ああああ」
ずるずると、地球という大質量に引き寄せられる、2人分の重さ。いろんなところが、引きちぎれそうだった。
いつまでもつかじゃない。引き上げなければならない。このままだと、2人共、急斜面を、滑り落ちた後、空中に投げ出されれることになる。目眩がするほどの高さ。うん。こりゃ死ぬわ。
「うわあああああ!!」
第三者の声。現状を打破する救世主。
絶叫しながら駆けつけたのは、頼れる相棒、綾ノ胡桃だった。
◇
二人がかりで何とか見来を引き上げることに成功する。
「死ぬとこだったよ! マジ死ぬとこだった!」
危機を脱した少女は、たっぷりと息を吐いた。と、途中から駆けつけたほう、自分と同じ顔、同じ背格好の人物に気がつく。
「あ、れ……? 胡桃ちゃん?」
「そうだ、お姉ちゃんだ」
「なんで、ここにいるの?」
「そりゃあ、可愛い妹を助けに来たに決まってる。昔、約束しただろう? ピンチのときには助けに来るって」
胸をはる。
間に合ってなかったけどな。
当然、今の説明では、不十分過ぎる。見来の彷徨う視線の先には俺がいた。
姉以上にいるはずのない存在。音信不通の幼馴染が、そこにいた。
「も、もしかして――」
目を疑うのも無理はない。俺は、ただ、頷いた。
「――胡桃ちゃんの彼氏?」
とんだ、勘違いだった。
「違う」
見来はうーん、と別の可能性を探し、そして気が付く。
「もしかして……五可……君?」
「ああ。伊津五可だ」
「本当に? 夢じゃない? 私、私、約束を……」
と、そこで、胡桃が割って入る。わりと良いところだったんだけど。
「悪いけどあとにしよう。日が暮れそうだ」
天を仰ぐ。必死で気づかなかったが、陽の光はすでにオレンジ色に変色していた。
「何、方角を間違えなければ大丈夫だ。お姉ちゃんに付いてこい」
言葉通り。
これまでの苦労に比べると、じつにあっさり、俺たちは山を抜けた。
タクシーを拾い。
そして、帰路につく。
積もる話なんて、いくらでもあったが、
俺たちはとにかく、疲労していた。
後部座席では体を預け合いながら姉妹が眠っていた。
俺は助手席。足元の隙間にはタマの体がが、収まっており、頭だけひょっこり出ていた。
滅茶苦茶な態勢だったが、繰り返しになるが、彼女の姿は俺以外の誰にも見えず、声も聞こえないので、交通ルールもクソもない。
「五可、お疲れさま」
(ありがとう。タマのおかげだ。本当に)
独り言を言うわけにはいかないので、そう、心の中で応える。
「うにゃあ」
タマの頭を撫でながら、俺も目を閉じると、泥に沈むように眠りに落ちた。
◇
「ただいまー」
玄関の引き戸をを開けると、見来は何事もなかったかのように、帰宅を宣言した。家の中には夕飯の匂いが立ち込めていた。奥から出てきた姉妹の母親は、目を丸くする。
「泥だらけじゃない」
見来は、恥ずかしそうに笑った。胡桃は相変わらずの仏頂面だが、そうだな、確かに恥ずかしい。まるで、子供みたいだ。
母親は昔の姿を重ねて見たのかもしれない。可笑しそうに笑っていた。
でも、俺たちはもう子供じゃない。何をしてたのかとか、問いただされることはなかった。無事帰ってきたのだからそれでいい。俺たちもわざわざ、心配をかけるようなことを言う必要はない。
と、見来が何やら身を捩らせる。見ると、彼女の足元に何かふさふさしたものが、まとわりついていた。
「おお、お前、まだ生きてたのか」
と反応する胡桃。
見来は、その生き物の頭を撫でながら、話しかけた。
「帰ったよー」
その生き物は、緩慢に身を丸めたあと、にゃあ、と返事をした。
そのやりとりを、一歩下がって見つめる少女――彼女の頭にもまた、獣の耳が生えていた。死に装束のように白い衣装を纏い、片目には包帯が巻かれている。
「何だ、忘れたのか? 五可。本当に君は忘れっぽいね。そして薄情だ」
「仕方ないよ、子供の頃の話だもん」
混乱していた。情報を整理して状況の把握に努める。
「ほら、あの子だよ、五可。さすがに屋外じゃ冬は越せないだろうということで、無理を言ってうちで引き取ることになっただろう?」
見来は優しくその猫の頭を撫でた。
「君もわからないかな、恩人なんだけど。まあ、仕方ないよね。君にとっては遥か昔のこと――あの頃は子猫だったけど、もうだいぶ年を取ったもの――ね、タマ」
そう。
そういう、こと。
(あの女は嫌いにゃ)
そりゃそうだ。
自分を殺した人間を好きになれるはずがない。
でも、こういう未来もあったんだよ。
お前ら、本当はこんなに仲良くなれたんだ。
思えば、不幸なやつだった。
子猫のときから家族がいなくて。
小学生の子供とは友達になれたけど、すぐに命を落として。
命を終えたあとも、なお、失って。
悔しいだろうか。
幸せに、平穏に。
叶えられなかった、普通の猫としての一生を垣間見て、唇を噛むだろうか。
いや、そんなはずないよな。
「ああああ」
誰にも聞こえない声。
「うあああああ」
それは秘められた感情。
能天気さの奥に隠してきた、思いの吐露。
この世のものならざる少女は、人知れず、嗚咽した。