がらくたディスプレイ

趣味の小説置き場。どこかで誰かが読んでくれると幸せです。

『素晴らしき人生をあなたに #5』 /なんちゃってSF

 

 

 #5

 

 一郎はベッドの上で目を覚ました。

 記憶の混乱などはなかった。意識は眠る前から直接繋がっていた。注射を打たれたあとに意識を失って、次の瞬間にはここで目覚めたような感覚だ。

 辺りを見回す。見覚えのある部屋だった。ここは、二十年以上前、妻そして娘と暮らしていた時のアパートの寝室だった。この頃の一郎は会社に勤めていたので、現実世界で暮らしていたアパートより、二周りは立派だった。何より部屋数が多い。

 それにしても、ものすごいリアリティーだった。小嶋の言っていた通りだ。予め知っていなければ、ここが仮想世界だなんて考えるはずもない。

 そう、ここは仮想世界。コンピューターの計算により作られた、偽物の現実。

 いや、もう、一郎にとってはここが現実であり本物だ。ここで生きると、そう決めたのだから。

 部屋のドアが開いた。小さな子供がベッドにかけより、一郎の腰の辺りに飛び乗ってきた。


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「パパ! 起きるよ!」

 そして、バウンドを始める。しっかりとした重量が、腹を圧迫する。

 思い出す。

 ある時期、父親を起こすのが自分の役割だと、彼女は信じていた。

「咲……」

 一郎の目に涙が溢れた。

 一郎は顔を隠すように、小さな体を抱き締めた。

 

 リビングでは妻の葉子がソファーに座ってテレビを見ていた。画面には、明るい雰囲気の情報番組が流れていた。葉子は一郎に気が付くと、自然に朝の挨拶をした。

「あ、ああ。お、おはよう……」

 一郎の言葉はぎこちなかった。仕事以外で誰かに『おはよう』と言うこと自体、いつぶりだったか、一郎には思い出せなった。

 一年ぶりに声を出したときみたいに、変な口調になってしまったが、妻は特に気にした様子はなかった。一郎はふと、あることに気が付き、葉子に尋ねた。

「今日って、何曜日だっけ?」

 もし、平日ならば、会社に行かなければならないはずだ。

「日曜日よ。何? 寝ぼけてるの」

 葉子はクスクスと笑った。

 どうやら、会社には行かなくていいらしい。そして、この頃の妻との関係は良好のようだった。

 この頃――というのは、正確にはいつだろう。

 そうだ。次に確認すべきは、今日が何年の何月何日かということだ。さすがに葉子に直接そんなことを聞けば、訝しがられるだろう。

 よく見るとリビングには、カレンダーが下げてあった。一郎はなるべく自然を装い、カレンダーに近づいていった。月ごとに捲るタイプのもので、年と月はそれで確認することができた。離婚する二年前頃だ。具体的な日付については、そのうち、何かしらでわかるだろう。

「どうかしたの?」

「いや、別に」

「まだ、目が覚めてないようね。顔でも洗ってきたら?」

 妻に促されて一郎は洗面所に移動した。そこで、一郎は信じがたいものを見た。

「は、ははっ」

 思わず、笑ってしまう。それくらい冗談じみていた。

 鏡に写った一郎の姿は若かった。髪ほ黒々としているし、肌には皴がなく、はりがあった。

 それに、鏡の中の男は溌剌としたオーラを発しており、目からは力強さを感じた。

 何より感動的だったのは、歯が全て揃っていることだった。

 顔に手を当てる。

 ――本当にこれが自分だろうか。かつての俺は、こんな男だったのか。

 玄関で靴を履いていると、咲に話しかけられた。手には見覚えのある、熊のぬいぐるみを持っていた。たしか、咲のお気に入りのものだ。

「パパ、お出かけ? どこに行くの?」

「ちょっと、外を歩いてくるよ」

 一郎は、家でどう過ごしてよいかわからなかった。行くあてがあるわけではなかったが、近所の地理を確認するためにも、散歩をしようと思った。一郎は咲の頭を撫でて、玄関を出た。

 

「竹林さん」

 町をふらふらしていると声をかけられた。聞き覚えのある声だった。この時代の知り合いだろうかと思い、辺りを見回すが、それらしい人物はいない。

 それでも何度も声は繰り返された。そして、その声はどうやら頭の中から聞こえてくるようだった。一郎は、ある可能性に気がついて、小声で返した。

「もしかして、小嶋さんですか?」

「やっと、応答してくれましたね」

「声だけでは、わかりませんよ」

「え? ああ、モニターをつけるのを忘れていました」

 突然目の前に、小嶋の顔が現れた。もう少し詳しく説明すると、空中に現れた四角いスクリーンに小嶋が映っていた。スクリーンは宙に浮いており、半透明で、手で触れると抵抗なくすり抜けた。

「なるほど」 

 首を回すと、スクリーンもついてきて、常に視界の真ん中に小嶋の顔が張り付いている。

「それは、竹林さんにしか見えませんので安心してください。それで、どうですか? そちらは」

「いやはや。信じられませんよ。妻や娘にまた会えるなんて。本当にありがとうございます」

「家族に再会するのが目的じゃないでしょう。ここからやり直すためにあなたは来たんですから。竹林さん。今日が何の日だかわかりますか?」

 何の日?

 記念日か何かかと思ったが、先程カレンダーで見た日付に思い当たるものはなかった。

「いいえ」

「あなたが初めて奥さんに手をあげた日ですよ」

「……」

「あなたの記憶を読み取ったあと、コンピューターは、あなたが人生をやり直すのに最適な時点を、この日と判断したんです」

 この頃、一郎は会社で仕事がうまくいっておらず、ストレスがたまっていた。そして、些細なこと(それが何であるかを一郎は忘れてしまったが)で、妻に手をあげた。一度やってしまうと行為に対するハードルが下がってしまい、ことあるごとに暴力をふるうようなった。

「今日があなたの堕落した人生の始まりの日です」

「……」

「これ、プレゼントです」

 突然、何もないところから本が現れた。一郎は、気が付けばそれを握っていた。

「これは……?」

 タイトルや、表紙から判断するに、メンタルのコントロールに関する本のようだ。

「竹林さんに必要なものですよ」

「ありがとうございます。読んでみます」

「おなじことを繰り返しちゃ駄目ですよ。頑張ってくださいね」

 そして、通信が切れる。スクリンーンは消失した。

 人生をやり直す。

 今度こそ幸せな人生を送る。

 一郎は、本を握りしめた。