『素晴らしき人生をあなたに #6』 /なんちゃってSF
#6
家に帰る前に喫茶店に入った。
一郎はふと心配になり財布の中身を確認したが、杞憂のようだった。この頃は会社員であることに多少なりとも不満があったものだが、少なくとも収入の面に関しては、フリーターと比べるまでもない。
金があることがわかったので、コーヒーと、軽く食べるものも注文した。
少しばかり長居するつもりだった。喫茶店に立ち寄ったのは、家に帰る前に小嶋から貰った本に目を通すためだった。隅々とまではいかないだろうが、要点くらいは抑えておこうと思った。
それから2時間ほど、一郎は食い入るように文字を追った。感情というものが、コントロール可能なものだと、彼は初めて知った。
気の短さがが、これまで自分の人生にどんなに悪影響を及ぼしたかわからない。でも、それは、自分の性格なのだと諦めていた。まさに霧が晴れたような気分だった。
日が暮れる前には家にたどり着いた。
小嶋が言うには、今日が妻の葉子に初めて手をあげる日だということだ。
ということは、このあと何かしらトラブルがあるとか、その行為の発端となるようなことがあるはずだ。一郎は警戒した。
妻の作った夕食を食べたあと、これかと思うことがあった。
それは、とても些細なことだった。
不愉快に思いこそすれ、決して怒り狂うようなものではなかった。適当にやり過ごせばよい程度のことだった。
怒るより何より、コントロールなどと言う以前に、こんなことで、自分は人生を棒にふったのかと、愕然とした。
小嶋から貰った本から学んだことは、気が付いてしまえば、それほど難しい理屈ではなかった。
人間である以上、怒りを感じるのは仕方がない。が、要は、それを行動として出さなければいいのだ。暴言を吐いたり、物に当たったり、人に当たったりといった具合に。
そのためには、自分の感情を客観視すればいい。怒りを感じている自分の心の動きを、冷静に観察するのだ。すると、やがて怒りは冷めていく。
この方法が一般的に有効かはさておいて、少なくとも一郎には効果てきめんだった。もしかしたら、暗示にかかった状態というだけかもしれないが、効果があるのなら、それに越したことはない。
一郎が得たこのスキルは、あらゆる場面で役に立った。
家で癇癪を起こさずにすんだし、それは会社でも同じことだった。
一郎はこれまで、会社でも癇癪を起こしていたのだ。ことあるごとに頭に血がのぼり、思考が暴走して、仕事どころではなくなっていた。そして、上司や同僚との衝突も多かった。
しかし、感情のコントロールを意識しだしてからは、多少理不尽な出来事があっても、感情的にならずに、仕事にあたることがてきた。
すると、仕事がうまく行き始めた。
一郎は、以前よりも熱心に仕事に取り組むようになった。仕事に対する充実感を感じるようになったこともあったが、何よりも家族を守ろうと必死だった。
家族との関係は良好だった。
ただの一度も妻に暴力をふるうことはなかったし、娘に毛嫌いされることもなかった。
やり直せたのだ。
そして、手に入れた。
もう二度と手放したくはなかった。
10年がたった。
一郎は会社ではそれなりの地位についてた。
妻とも離婚することなく、仲の良い夫婦関係を続けていた。
娘の咲も無事に成長していった。
何もかもが順調だった。
一郎は家を購入した。
豪邸というわけではなかったが、家族3人が住むには十分な広さだった。今日は新居への越しの日だった。
リビングには業者が運んだ段ボールが山積みになっていた。荷ほどきが一段落したところで、一郎は新調したソファーに腰を下ろした。隣には妻の葉子がいた。
「まさか、こんな日が来るなんて」
「おおげさだなあ。確かに上棟してから、すごく長く感じたけれど」
「あなた、毎日のように進捗を見に来てたものね。でも、そうじゃないわ。なんていうか、昔はこういうことを諦めていたから」
「こういうことって?」
「家を持つっていうことは、地面に足をつけて安定した生活を送るってことじゃない。昔のあなたは短気で怒りっぽくて、会社だって、そのうち辞めちゃうんじゃないかと思っていた」
「耳が痛い」
「でも、あなたは変わったわ」
「怒りっぽいのは今も変わってないよ」
「本当に?」
「怒りをコントロールできるようになっただけだよ。だから変わったっていうより、成長したんだ」
パタパタと足音が聞こえた。見ると、十五歳になった咲が、階段を下りてきていた。咲は自分の部屋が貰えて大喜びで、今までその部屋で家具の配置などを悩んでいた。
「お部屋、すごく素敵だよ。見に来てよ、パパ」
「いい加減、『パパ』はやめないか、咲。来年は高校生になるんだから」
「だって、パパはパパはだもん」
幸せというものに形があるのなら、それはきっとこういうことだろう。一郎は思った。
「こんにちは、竹林さん」
それは、唐突だった。
夜、一郎がまだ慣れない自室でそわそわしているときだった。
一郎にとっては10年ぶりの邂逅。
目の前にスクリーンが開いた。
スクリーンの中で女が手をふっていた。