『素晴らしき人生をあなたに #4』 /なんちゃってSF
#4
一郎は、小嶋に渡された地図が示す建物を目指し、山道を進んでいた。
山のふもとまではバスで来ることができたが、そこからは徒歩で進むしかなかった。山道は、特別険しいというわけではなかったが、不摂生により甘やかされた一郎の体には堪えた。
いや、不摂生というより、単純に歳を取っただけなのかもしれないが。
無駄に歳を重ねただけかもしれないが。
木々が開け、四角い建物が現れた。外壁はコンクリートでできており、見る者に無機質な印象を与える。入り口らしきところから中に入ると小嶋の出迎えがあった。
「竹林さん! 待ってましたよ」
小嶋は、満面の笑顔を浮かべた。一郎には彼女の姿が、女神のように見えた。どうしようもない男に手を差し伸べてくれた女神だ。
アパートに押しかけてきたときには、あの笑顔が胡散臭く感じていたことが、今となっては不思議だった。きっと心が荒んでいて、視界にフィルターがかかっていたんだろう。
小嶋に案内され小部屋に入る。中にはテーブルと椅子が置かれており、警察署の取調室を連想させた。
そこで、一郎はたくさんの書類にサインをした。プリントアウトされた文字はフォントが小さく、文字数も多かった。そして、少しだけ読んだ限りでは、内容が難解で、早々に読むのを諦めた。
代わりに、小嶋が口頭で説明してくれた。紙一面に書かれた項目が、一枚ほんの十秒程度で言えるくらいに要約できるのだから、不思議なものだった。初めからそのくらいにまとめて書けばいいのにと一郎は思った。
書類へのサインが終わると、また、別の部屋に連れていかれる。
さほど広くはない。6畳といったところだ。壁際には、様々なボタンが付いた機械やディスプレイが並んでいた。そして、部屋の真ん中にはスポーツカーのシートのような椅子が置かれていた。
「では、さっそく始めましょう。竹林さん。その椅子に座ってください」
一郎は小嶋に促されるまま、椅子に座る。
椅子の隣のテーブルには、ヘルメットのようなものが置かれていた。何かの装置であるらしく、配線がむき出しになっている。また、ヘルメットからはケーブルが延びていて壁際の機械類と繋がっていた。小嶋はそれを一郎の頭にかぶせた。
「これは何の装置ですか?」
「竹林さんの脳の情報を読み取る装置です」
小嶋はそう言いながら、注射器内の空気を抜いていた。針の先端から薬液が飛び出る。
「ちょっと待った! 何ですかそれは?」
「注射器ですが」
「それはわかります。俺が言ったのは、それを何に使うのか、ということです」
「これで竹林さんに眠ってもらいます」
「眠る?」
「はい、書類に書いてあったでしょう?」
「でも……説明を受けてないような気がします」
「そんなことないと思いますけど――いいです、もう一度説明します。今から竹林さんが頭につけているその装置で竹林さんの脳の情報をまるっと読み取っていくのですが、意識があるままではそれができないのです。なので、このお薬で眠って貰います」
「そういうことですか」
「納得しましたか? ちなみに脳の情報のトレースが完了したあとは、竹林さんはそのまま仮想世界に入ることになります。つまり、眠ったあとに目覚めるのは向こうの世界ということになります――腕捲ってください」
「あ、ああ」
一郎は、左腕の袖を捲った。現れた肘の内側の血管のところを、アルコールを染み込ませたガーゼで消毒される。
いよいよだ。一郎は思った。いよいよ、この現実に別れを告げて、新しい世界で生まれ変わる。そこで、今度こそ失敗せずに、人生を送るのだ。
待てよ。
一郎はふと違和感を感じた。
「俺が向こうに行ったあと、俺の体はどうなるんですか?」
小嶋はため息をついた。
「それも書類に書いてありましたよ。体は竹林さんが仮想世界に入ったあと、その後の経過に問題がないことを確認したあとで活動を停止させます」
「停止ってどうやって?」
「どうやってって……そういうお薬を注射します」
「何というか、とても言い方が難しいのですが……それは死ぬということではないですよね?」
「竹林さんは仮想世界の中で生き続けますよ」
「そうではなくて、体の活動が停止するというのは、体が死ぬということではないのですか、ということです」
「体のほうは死にますね」
「何だって!? 聞いてないぞ!」
一郎は瞬間、激昂した。
小嶋は涼しい顔でそれを受け流した。
「だから、書類に書かれてますし、あなたはそれにサインしてます」
「いや、こんなの詐欺だ!」
「じゃあ――」小嶋は涼しく微笑んだまま。「やめますか?」
「え?」
「やめて、またあの汚いアパートに戻るんですか? またあの惨めな生活に戻るんですか? 別にこちらは竹林さんでなくてはいけない理由はありません。特に違約金なんかは発生しませんから、やめるならやめるで、さっさと帰ってください」
一郎は悔しい気持ちでいっぱいになった。なぜなら、小嶋の言い分が正しいからだ。自分に文句を言う筋合いなんてなかった。
「すみません。向こうの世界で生きていくのだから、現実世界の体はどうなろうと関係のないことでした」
「ですです」
注射器の針が血管に埋没する。薬が注入されると、一郎に暴力的なほどの眠気が襲いかかかった。一郎は、数秒もせずに深い眠りに落ちた。