『未観測Heroines #60』 /小説/長編
♯60
朝から雪が降っていた。
ランドセルを背負った子どもたちは、明日からの予定に思いを馳せ、みなどこかそわそわしていた。
終業式のあと。教室への移動中に、学校を抜け出した。
神社の近くの大きな川の橋。そこから少し離れたところで、待ち伏せる。
ダウンジャケットのフードを深くかぶり、なるべく外気と触れる面積を少なくする。それでも、ガタガタと震える体を抑え続けながら、彼女が到着するのを待つ。
それなりに深さと流れのある川だ。それにこの寒さ。まかり間違って落ちたりしたら、そりゃあ死んじゃったりするよな。
◇
雪の中、ピンクのランドセルを背負った女の子が現れ、橋の真ん中で立ち止まる。
見来だ。
胸には子猫を抱えていた。
閑散としていて、人はいない。
とはいえ、人里離れた山の中というわけでもない。どこで誰が見ているかわからない。だから、この時彼女はたまたま誰にも見つからなかっただけだ。それが、幸か不幸かはわからないけれど。
俺が声をかけながら出ていくと、心臓発作でも起こしたように見来の体が跳ねた。
「今日はとても寒いな。こんな日は早く家に帰ってこたつに潜り込みたいよ。で、どうしたんだ? こんなとこで。風とかびゅんびゅん来るじゃん。ところで――」
女の子の胸元を指差す。
「タマに用事?」
「違うんだよ、これは」
「違うって何? 何が違うの?」
「タマとお話しようと思って」
「だから、何と違って、タマと話をしようとしているのかが聞きたいんだけど」
「何だか、今日の五可ちゃん、怖いよ?」
目を潤ませながら、たじろぐ。
その隙に、子猫が見来の腕の中から逃れ、俺の足元にすり寄ってくる。
これで、当初の目的は果たしたことになる。少なくとも今日、タマが死ぬことはないだろう。でも――
「まあ、いいや。じゃあタマに話って何の話? 見来、猫語とか喋れるの?」
「話……は、もう――」
「川のほう、見てたよな」
「お魚……だよ。ほら、猫ってお魚好きだから」
見来は柵越しに川を見下ろし、必死に魚の影を探すが、水温が低いためか、そんなものはまるで見当たらない。
無防備な後ろ姿を――晒す。
無理もない。
彼女にとって俺は、昨日までは普通の子供で、幼馴染みで、最も信頼する人間のひとりだっただろうから。
なので、何が起こっているのか、最後まで理解できなかったかもしれない。
俺は彼女を足から抱え上げた。
見来の体はあっさりと欄干を越え、空中に投げ出された。『へ?』とか『は?』とか、そんな間抜けな声を残して落下していく。
こんな、寒さの中川に落ちたら――そりゃあ、死んじゃったりするかもな。
◇
「終わったか?」
部屋に戻る。タマの声のトーンは少し低かった。
「ああ、やっちまった」
「どういうことにゃ? 聞かせるにゃ」
俺はことの経緯を説明した。
実際は経緯というほど、大げさなものじゃない。見来の無防備な姿に誘われ、『つい』川に突き落とした。以上である。
「ってわけでいつ警察が来てもおかしくない」
「うーん。このまま未来に進んでも、五可が辛いだけにゃ。子供といえども犯罪にゃ」
「じゃあ、過去に戻るしかないな」
実のところ『今日』をやり直すことは簡単だ。一回飛べばなかったことになる。でもせっかくなら――
「あと1年分戻ろうか」
「?」
「本当の始まりの日まで」
「それは、去年の遭難事故の日か?」
「うん」
始まりの日。
俺と見来の絆は、あの日の洞窟から始まった。
「何で、そこまでして……」
「実は結構前から考えてたんだ。神様のゲームな。終わってみていろいろ思うところがあったんだよ。何もかも、俺の人生、あの悪趣味な催しのために仕組まれてたんじゃないかって思うと、気持ち悪くてさ。これまでの人生、全部つくりものだったんじゃないかって――」
「……」
「だから、やり直すなら、あの日だ。ここまで来たんだ。せっかくなら全部やり直したい」
「そうか……」タマは、なぜか嬉しそうにはにかんだ。「しょうがないにゃ。もうちょっとだけ付き合ってやるにゃ」
「もうちょっとだけ?」
「これで、もう少し一緒にいられる――」
「ん?」
「いや、もう少し一緒に旅ができるにゃ」
それ以上、追求はしなかった。
できなかった。
その言い間違いは。
とても、嫌な結末を示唆していたから。
◇
2012年11月23日、金曜日。
その日、家族旅行に出かけた。
とある山の展望台で、隣の家の家族と合流する。見来とその父親だ。
なぜか、姉のほうはいない。いや、確かもうずっと前のことだけど、母親と一緒におばあちゃんの家にいたと言っていた気がする。
展望台でピクニックと言っても、子供には少し退屈だ。俺と見来は、ぶらぶらと探検ごっこをしていた。と、そこに、とてもキレイな蝶々が現れた。黒い羽に宝石を散りばめたようにキラキラと輝いていた。
俺たちは、宝物を見つけたような気がした――子供の頃の俺たちは。
だから追いかけようとした。
今まさに木々の間に踏み入ろうとする見来の腕を掴んで止める。
「行っちゃうよ?」
もう、迷ったりしないように。
「やめよう。そっちはきっと危ないよ」
もう、ひどい目に合わないように。
「こっちのほうが楽しいよ、きっと」
もう、世界が分岐したりしないように。
「ううん。もう冒険はおしまいだ」
「本当に」
見来は、じっと俺の目を覗き込む。
「ん?」
「本当にいいの?」
その言葉は、俺の決意を鈍らせるのには十分だった。
だって、楽しかったろ?
最後は酷いことになったけど、遠い日の思い出はキラキラしたままだ。
好きだったんだ、君のことが。
仲の良い幼馴染みとして過ごした少年少女時代を。
永遠になくしてしまってもいいのか。
もしかして。
まだ、戻れるのかな。
ここからなら。
まだ――
振り払う。
都合のいい妄想を。
捨てたはずの未来の残像を。
「いいんだ もう、これでおしまいにしよう」
素敵な日々にさようなら。
朝、寝起きの悪い幼なじみの部屋に起こしに行くような。
ラブコメみたいな日常にさようなら。
出来すぎたフィクションにさようなら。
そして――
「そ――」
彼女はつまらそうな顔をして、踵を返し、親の元に駆け寄っていった。
そして、今までありがとう――『胡桃』。