『未観測Heroines #61』 /小説/長編
♯61
「ハッ、ハッ」
息を切らして、アスファルトを蹴る。
そろそろ夕方になろうかという時間帯。あまり遅くなると、両親が心配する。俺は、小学2年生の子供だった。
――旅行から帰ると、タマの姿が見当たらなかった。押し入れで寝てるのかとも思ったが、いない。もぬけの殻だ。それから、1時間ほど待ってみたが、帰ってくる気配はない。
以前から、不穏な空気はあったのだ。ほのめかしていただろう。
気が付けば俺は、家を飛び出していた。まだ、この世に存在していると信じて、探す。
こんな別れ方は嫌だ。
案外、家に帰れば何食わぬ顔で出てきそうだが、それならそれでいい。今は、探さなければ。もしこのまま会えなかったら、一生後悔しそうだから。
◇
何はともあれ、とりあえずは、確認すべきところがあった。
小学校の近くの神社。
息を整え、境内に入る。そして、古びた拝殿へ向かう。
「確か、こっち――」
裏側へ回る。
まだ子猫だったタマと初めて出会った場所だ。
「さすがに、そんなに都合よく――あ」
いた。
あっさりと見付かった。
木の柱がむき出しの軒下に、震えるように隠れていたあの日と同じように――彼女はまだ、存在していた。
「タマ……」
ていうか、寝ていた。人の気持ちも知らないで。
「起きろ!」
足をペシペシ叩く。
「にゃ!?」
飛び起きた拍子に頭を打つタマ。うめき声をあげながら、軒下からずるずると這い出てくる。
「何やってんだよお前」
「にゃんにゃん。気が付いたら寝てたにゃ」
「だから、何でこんなところにいるんだよ。探したんだぞ」
「それはまあ、――最後はここがふさわしいんじゃないかと思ったから、にゃん」
ほらな、やっぱりだ。
「最後ってなんだよ?」
絞り出した声は震えていた。
タマは、
「五可、今幸せか?」
そう、問うた。
◇
「もちろんだよ」俺は即答した。
「私の願いは『五可の』幸せにゃ」
「だから、十分だよ」
「もっと、普通の、人間としての幸せにゃ。普通な、幸せかと聞かれて、即答なんてしないにゃ。幸せなんて普段から意識するものではないし、実感があるのかどうかも怪しい、あやふやなものにゃ。だから、今のはただの反応。話を合わせるだけにゃ」
「そんなことは……」
ほとんど言いがかりに近かったが、ないとは言い切れなかった。
「五可も本当は気づいているんだろう? 五可の心はもう――とっくの昔に壊れているにゃ」
「……心なんて、それこそあるかどうかもわからないものが壊れてるって言われてもな」
「いや、心はあるにゃ。間接的にだけど、ちゃんと観測もできるにゃ」
「そうか。なら、俺のどこが変だっていうんだよ」
「いや、わかるだろう? 普通な、人を傷つけておいて、へらへら笑っていられないにゃ」
「何言って……ああ、あれか。見来を川に落としたときのやつか」
真冬の川にな。あのあと見来がどうなったのかは確認していない。まあ、ただ、動いてなかったように見えるから、あとは言わずもがなだ。
「ここは痛んだのかにゃ?」
ゴン、と、胸の辺りを小突かれる。
「最初に幼なじみを失ったときみたいに、ここが痛んだのか? ちゃんと苦しんだのか?」
「いや、だって、それは……たとえ死んじゃっても、またやり直せるってわかってたし」
「その思考がすでに人間離れしてるにゃ。本来人間の選択肢に、やり直しなんてない。起きたことは変えられない。せいぜいできるのは忘れることだけにゃ」
「わかってるよ! そんなこと」
そんな、当たり前のこと。
「だからこそ――いろんな場面で、迷って、迷って、選んできた足跡だから人生は尊いにゃ」
「……」
「本当は、私もわかっていたにゃ。五可をずっと見てきたから――あのときなら、まだ、引き返せたかもしれないのに。もう、ずっと昔、神様のゲームが終わった頃、五可が好きだと言ってくれた、あの日なら……。でも、受け入れてしまった。私も五可と一緒にいたかったから。一緒にいられる口実が欲しかったから。ごめんにゃさい」
「謝るなよ。全部俺が決めたことじゃないか」
「いや。五可から人としての人生を奪ってしまったのは私にゃ。だから責任を取るにゃ」
そして、下手なドラムロールの真似。
どろろろろろ。
じゃん。
「裏面までクリアしてしまった五可にスペシャルボーナス! 全部なかったことにするにゃ!」
「え?」
「神様と交渉してきたにゃ。実はな、私の報酬、まだ受け取ってなかったにゃ。私の、望みは五可の幸せ。だから、全部、ゼロに戻してもらうにゃ!」
「何だよ……それ」
「ぜんぶぜんぶ。なかったことになるにゃ」
「そんなの、駄目に決まってるじゃないか!」
辺り一面、光に包まれていく。
とても、神秘的な光。
眩しい。
光に溶けていく。
木々も。
雑草も。
建物も。
街も。
空も。
目が慣れた頃。
白い空間の中にタマの後ろ姿が見えた。
「待って、行かないでくれ」
長い髪をなびかせながら振り向く。
それはとても懐かしい姿だった。
/つづく