がらくたディスプレイ

趣味の小説置き場。どこかで誰かが読んでくれると幸せです。

『未観測Heroines #1』 小説/長編

 

 ♯1

 

 

 雨が降っていた。

 都合よく見付けた薄暗い洞穴の中から、森が濡れていくのを、ぼうと眺めていた。

 サラサラとした優しい雨音。

 土の匂い。

 虫の気配。

 つないだ手のぬくもり。

 ここには、子供しかいない。

 僕と、彼女しか。

 もうすぐ12月になる。だけど、土の上で繋いだ手が震えているのは、肌寒さからだけではないだろう。

 少しだけ探検するだけのつもりだったのに、まさか、こんなことになるなんて。

 とても、不安だった。

 怖かった。

 このままずっと助けが来なかったらどうしよう。こんな山の中で、何もできない僕らはどうなってしまうのだろう。

 唯一の拠り所は、お互いの手のぬくもりだけだった。

「手、離さないでね」

 彼女がか細い声で言う。

「うん。離さないよ」

 僕はぎゅっとその手を握りしめる。

「絶対だよ」

「うん。お父さんやお母さんが来てくれるまで、ずっとこうしていよう」

 握り返すひと回り小さな手。

 そのつなぎ目を中心に、温かいものがひろがってくる。

 彼女とは、気付いたころには一緒にいて、たくさんの時間を過ごしていた。

 それが当たり前で、妹がいたらこんな感じなんだろうと漠然と思っていた。家は違うけれど、ほとんど家族のようなものだ。

 だけどこのとき、これまでとは少し違う感情が生まれていた。

 彼女のことはもちろん前から好きだった。

 でも、きっとこれは違う『好き』だ。

 僕が守らなきゃ、と思った。

 ずっと、この手を離さない。

 このときは確かにそう思ったんだ。

 

□11月23日(水)

 

 ――――。

 意識が眠りの泥から浮上する。

 夢を見ていた気がする。

 今にも瓦解して、消失しかかっている夢のかけらをつなぎとめる。

 子供の頃の夢。

 6歳とか7歳とか、そのくらいの年齢だと思う。そんな頃の夢を見たのは、やっぱり、昨日の事件に起因しているのだろうか。

 ベッドから床に降り、机の上に置かれた時計に目をやる。日付も表示される四角いデジタル時計だ。

 起きてすぐに日時を確認するのは、なんとなく習慣になっている。

 11月23日水曜日。午前7時。

 起床の時間はいつもと同じ。

 この時計にもアラームの機能はついているはずだが、使ったことはない。そんなものなくても、平日であろうと休日であろうと変わらず、まったく同じ時間に目が覚める。もしかすると俺の脳内には時計が内蔵されているのかもしれない。

 そんな、寝起きで拡散傾向になっている思考にきりをつけ、身支度を整える――整え、玄関を出る。

 見上げると、澄んだ空が拡がっていた。良かった。いい天気だ。気温も低すぎず、ひんやりした空気が心地いい。

 俺は、すぐ隣の住宅の前まで移動し、その家の門扉をくぐり、インターホンを鳴らすことなく玄関に侵入した。

「あがるぞー」

 泥棒しようってわけじゃない。きちんと礼儀正しく来訪を告げたあと、靴を脱ぎ始める。遅れて、

「おーう」

 と、奥から男の返事がある。

 玄関から入って正面にある階段から2階に登り、すぐ右側にある部屋のドアを開ける。ノックなどはしない。しても意味がないし、今更だろう。いろいろと。

 俺が先程まで寝ていた場所と比べると、全体的に可愛らしい部屋。

 置かれているものは、机とか本棚とか――つまり高校生が必要とする家具はだいたい共通であるはずだが、どうしてこうも雰囲気が違ってくるのだろうか。

 おそらく、置かれているものの一つひとつに少しずつ、デザインの好みが反映されているのだろう。それらが総合して、可愛らしさを醸し出している。

 俺は必要な機能があればそれでいい、という割り切ったものの選び方をするので、どうしても全体的にシャープで無機質な印象のものが揃うことになるのだと思う。

 まあ、つまり、ここは女の子の部屋だということだ。そして部屋の主が、ベッドですやすやと寝息を立てていた。

 

 

 



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「朝だぞー、胡桃(くるみ)ー」

 声をかけてみる。

 ベッドの膨らみが少しだけ形を変えたが、それだけだった。

 なに、このくらいで、こいつが目を覚ましたことはない。これはまだ、第1段階だ。次の段階に移ろう。今度は掛け布団の上から揺すってみる。

「起きろー、朝だぞー」

「うーん」

 反応あり。

「おーきーろー」

「あと、5分」

「5分経ったら起きるんだな?」

「ご……じっぷん」

 ちみに、時間を表す『十分』という漢字の読みは『じゅっぷん』でも『じっぷん』でも、どちらでもいいと、この前ネット記事か何かで見た気がする。

「そんなに待てん」

 ついに第3段階。強硬手段の発動だ。

「あわわわ」

 布団を引っ剥がす。

「おふとん返してー」

 寝間着姿の胡桃はベッドの上で芋虫のようにうねうねする。寝間着と言っても上は長袖Tシャツ、下はジャージといった簡素なものだ。

 やがて観念したようで、胡桃はむくりと上半身だけ起こした。

「イ……ツカ?」

「おう、おはよう」

「おはよう……五可(いつか)。あれ? なんで、いるの?」

 起きはしたが、まだ、思考は覚醒していないらしい。

 眠そうな目で、背中まで届く長い髪に寝癖がないか確認する胡桃。手で撫でている場所とは別のところの髪が跳ねていたが教えない。

「なんでって、毎朝こうじゃん」

 簡単に説明すると、胡桃はなかなかの寝起きの悪さなので、学校に遅刻しないように、世話焼きの幼馴染である俺が、かいがいしく毎朝起こしにきてやっているのだ。

 漫画とかだと、男女立場が逆の場合が多いけれど、まあ、これは現実だ。そういうこともあるだろう。

 とはいえ、男が女の寝ている部屋に入るのはいかがなものかとは、正直思う。もう、お互い子供じゃない――もう高校生なのだから。

 もっとも、階下にいる男もそれは許している。むしろ、娘の世話を任せている感じだ。まあ、信用されているということで。

「うん。でもねでもね。今日は祝日で学校はお休みだよ。だから、お昼まで寝ててもいいと思うんだよ」

「昼までは寝過ぎだ」

 寝起きの愚鈍な頭でも、今日が休みなのか平日なのかくらいはわかるから不思議なものだ。

 祝日。勤労感謝の日だったか。正直俺にとって何かに感謝するとかはどうでもよく、大事なのは学校が休みかどうかということだ。

「せっかくの休みなのに、こんなに早く起きるなんて、時間がもったいないよ」

 壁掛け時計を見ながら、大きなあくびをする胡桃。そこはかとなく名言ぽいので、あえて突っ込みは入れないでおく。

「まだ寝ぼけてるのか。確かに今日は、学校は休みだけれど……昨日約束しただろ」

「昨日……?」

 ようやく思い出したようだ。昨日のことを。急速に顔を紅潮させた胡桃は、枕を抱きしめた。

 一緒に出かける約束をした。

 夜。近所の公園でのことだ。

 胡桃に連れ出された俺は、胡桃に告白された。そして、俺と胡桃は付き合うことになった。

 ―――――。

 誤解のないように言うと、紛れもなく、胡桃に『愛の告白』というものをされて、俺たちは正式に『男女交際』を始めることになった。

 子供の頃からずっと一緒にいた。

 家族同然と言えば言い過ぎだが。

 年齢を重ねるにつれて、昔ほど一緒に過ごす時間は減ってきたとはいえ。

 それでも、普通の友達とは違う、特別な関係性。

 妹のように思っていながらも、それだけじゃなくて。

 お互いが成長するにつれて、当然のように異性として意識するようになっていったし、可愛いやつだとも思っていたし、ぶっちゃけ、俺も胡桃に好意を寄せていた。

 だから昨日は、割とクールな感じを保っていながら、内心、小躍りしそうなくらい浮かれていたし、帰ってからはニヤニヤが止まらなかった。

 そんなわけで、何となく、ずっと続くと思っていた俺たちの関係は、昨日を境にあっさりと変わってしまった。

 何が変わって、何が変わらないかもまだわかっていないけれど、今日は、恋人として、初めて、時間を過ごす日だった。