『素晴らしき人生をあなたに #8』 /なんちゃってSF
#8
スクリーンに写っている男は、間違いなく竹林一郎の姿をしていた。
十年前。
人生をやり直そうと小嶋の所属する会社の施設に訪れた、あの日のままの姿だった。
身なりはお世辞にも清潔とは言えない。髪はぼさぼさだし、シャツはしわくちゃだし、襟元は黄ばんでいた。
男には覇気というものがなかった。人生への疲れのようなものが、顔つきからにじみ出ていた。年齢的には仮想世界の一郎より、十歳ほど上の計算になるが、見た目はその3倍ほど開きがあるくらいに老けていた。
――これが、昔の俺。
思わず口が開いてしまう。
当時、鏡に映る自分の姿に何も違和感を感じていなかったのが不思議でならなかった。
そう。彼は竹林一郎だ。毎日向き合っていた自分の姿だ。10年経とうが忘れようもない。
そんなことはわかっている。
しかし、彼が竹林一郎だと認めるわけにはいかなかった。
「お前は……誰なんだ」
だから、若い一郎はスクリーンの男にそう聞いた。
男は薄く笑った。
開いた口元から見える歯は、ところどころ、抜けがあった。
「俺は竹林一郎だ」
「それは……俺の名前だ」
そう答えると、男はゲラゲラと笑いだした。
「自分が、本当の竹林一郎だと信じているのか」
「俺は……竹林一郎だ」
繰り返す。
「ははは。気づいてるんだろう? お前は――いや、俺たちは騙されていたんだ」
「……」
「俺は、あの女に注射を打たれて意識を失った。そのあとは、今お前がいる仮想世界とやらに意識が移ると説明されていた。しかしだ、薬の量が足りなかったのか何だか知らないが、俺は今こうして目を覚ました。では、失敗したのかというとそうではないみたいだ。画面の中にお前がいるからだ。これがどういうことかわかるか」
「……」
「このシステムは、仮想世界に意識を送り込むものじゃない。単に、仮想世界の中に、俺のコピーを作るというだけのものだ。コンピューターがコピーし、それを書き出すだけ。それがお前だ。つまり、お前は、ただのデータだ」
気付きかけていた帰結を容赦なく叩きつけられ、視界が眩む。
「データというのは……最初からそういう説明だった。でも、ただのデータじゃない。俺には、ちゃんと意識がある。竹林一郎としての意識だ」
「そういうふうにお前が感じると、コンピューターが計算しているに過ぎない。お前の意識も思考も、コンピューターの計算の結果でしかない。竹林一郎としての? それは単に、俺の記憶も一緒にコピーしているというだけだろう」
――データ? この思考も、意識もデータだというのか。
妻と娘の顔が浮かんだ。
胸が、熱くなった。その熱を頼りに若い一郎は何とか反論しようと試みる。
「違う。なぜなら俺には心があるからだ」
「心? データのお前に心があるというのか。じゃあ聞くが、なぜそんなものがあるとわかるんだ?」
「あるものはある。理由なんていらない」
男は爆笑した。
「だから、そう思うようにコンピューターが計算しているだけだ」
「俺は……竹林一郎だ」
自分に言い聞かせるように繰り返す。
そうでなければ、ならない。
そうでなければ、この十年が――娘の成長も、仕事の成功も、妻への愛も、全て嘘になるじゃないか。
「では、なぜ俺はここにいる。俺の意識が仮想世界の中に入って、そのデータの体に宿ったというのなら、薬が切れたとしても、こうして俺が目覚めることはなかっただろうさ」
「……」
若い一郎が言い返せないでいると、スクリーンの男は、思い出したかのように苛立ち始めた。
「くそ、あの女騙しやがって、これじゃあ人生をやり直せないじゃないか」
そして、爆発したように激昂した。
ガンガンと音がする。
近くにあった機材を殴るか蹴るかしたようだった。視界に移るモニターが揺れてノイズが走る。
それはあまりにも衝動的で感情的な行為だった。彼は感情のコントロールを学んでいなかった。
昔の自分はこんなにふうだったのかと若い一郎は驚き、そして同時に恥ずかしく思った。
「やめてくれ! 機械が壊れる」
「ああ!?」男は構わず、八つ当たりを続けた。「壊れたらなんだってんだ」
「この世界が――壊れてしまう」
「……そうか。お前、家族とうまくいったんだな?」
「ああ、そうだ。離婚はしなかったし、会社も辞めなかった。咲は来年高校生になる」
「妻も娘も全部データだ」
「そうだとしても、俺にとってはかけがえのないものなんだ。お願いだから、俺から奪うのはやめてくれ」
若い一郎は涙を流しながら懇願したが、火に油を注ぐ結果になった。
「くそ、ますますムカついてきたぜ。全て消えてしまえばいい」
モニターから男の姿が消えた。そして、カチカチという音が聞こえた。
「何をしている!」
「めちゃくちゃに操作ボタンを押しまくっているのさ! ハハハハ」
少し素人が操作したくらいで簡単におかしくなるような脆弱なシステムではないだろうという希望的な推測をしたが、絶対にそうだという保証はなかった。それに、元々は小嶋が通信回路を開いていたのだ。セーフティのようなものが緩くなっていてもおかしくはない。
一郎の心配は当たった。
最初は車だった。目の前を通り過ぎようとした軽自動車が突然消失した。目を疑ったが、すぐに何が起きているかを理解した。
「やめてくれ! 世界が壊れてしまう」
「全部、消えてしまえ!」
カチカチカチカチーー。
近くにあったすべり台が消えた。
遠くに見えていたビルのひとつが消えた。
ランニングしていたおじさんが消えた。
道沿いの植樹が消えた。
うちの二軒隣の家が消えた。
「パパー!」
見ると、娘の咲が道路を越えて、こちらに駆け寄ってきていた。
「咲! こっちに来るな!」
「来るなって、どうしたの? パパ。おそいからお母さん心配してーー」
ビルがもうひとつ消えて。
次に、娘の体が消失した。