全7話『空想ヒロイン #1』 /ホラー/美少女
#1
夕日が沈みかけた頃に帰宅した。
古いアパートの一室。鉄製の扉を開けると、一畳もないくらいの狭い玄関が現れる。
造り付けの小さな靴棚の上部には平らな面があり、小物を置くのに適している。僕は後ろポケットからバタフライナイフを取り出し、そこに置いた。不用心な気もするが、きちんと施錠すれば問題あるまい。
奥にあるリビングに進む。1LDKという必要最低限の間取りは、本来であれば、男が1人、大学生活を送るのに十分な広さだ。
いたって普通のアパート。
ありふれた男子学生の部屋だ。
が、そこには――
「おかえりー。ねえ、君、私のプリン食べたでしょー」
鈴のような声の挨拶のあと、続けてひと息で後半は抗議になっていた。どうやら、昨日の夜、彼女が寝ている隙に食べたプリンのことを言っているらしい。
開口一番、待ち侘びたかのように文句が出てきたということは、表情はにこやかでも、内心は結構立腹しているのかもしれない。
ちなみに、話題となっているのは、有名店の高級品というわけではもちろんなく、ただのスーパーで買った3個で100円程度の安物である。
「ただいま、メノウ。ああ、プリンね。食べるには食べたけど、それがメノウのだったなんて知らなかったよ」
「嘘だよ! 私ちゃんと言ったからね。残りひとつは私のだからって。記憶力悪っ! 君、脳ミソ腐ってるんじゃないの?」
ツインテールが揺れる。可憐な容姿に相反して、出てくる言葉は凶悪だった。
「まあ、悪かったよ。今度また買って帰るから」
メノウは半月のようなジト目で僕を睨んでいたが、一応は納得したようで、すぐに通常モードに戻った。
僕は、メノウのはす向かい――シングルベッドに背を預けるようにして腰掛ける。
「それにしても、今日は随分遅かったね。講義はとっくに終わってるでしょ?」
メノウの言うとおり、通学距離を考えれば、講義が終わって、最短で15分後には、帰宅できる計算にはなる。
「まあ、2時間前には終わってるね」
「なら、さっさと帰ってくればいいんだよ。君には、つるむ友達なんていないんだから」
「友達がいないは余計だろう」
「本当のことでしょ?」
「本当のことなら何でも言っていいわけじゃない!」
「別に私は、友達がいないことが悪いことだとは言ってないよ。傷つくのは勝手だけれど、それは君のコンプレックスのせいであって、私のせいじゃないわ」
「……」
よくわからないが、僕のことを馬鹿にしていることだけは間違いないだろう。
「で。こんな時間までどこに行ってたの? まあ、私に隠れて何かやましいことをしているなら、無理に言う必要はないけど」
「本屋。ちょっと欲しい本があって」
やましくないので答える。
僕は基本自転車で生活圏を移動しているのだが、最寄りの本屋はそれでも少し遠い位置にあった。それに、まあ、目的はあるにせよ、本屋というのは行けばあれこれ物色してしまうもので、気が付けば結構な時間が経っていたということだ。
「本って言っても、どうせ、また漫画でしょ?」
「ああ、漫画だよ。別にいいだろ」
「もちろん何も問題ないわ。だから君も『欲しい本が――』なんて、見栄を張った言い方しなくていいんだよ。堂々と『漫画』って言えば」
「たまたま、そういう言い方になっただけだろ。そんなに人の趣味を馬鹿にしなくたっていいじゃないか」
「別に私は、漫画ばかり読んでるのが悪いとは言ってないよ。馬鹿にされたと思うのは勝手だけれど、それは君のコンプレックスのせいであって、私のせいじゃないわ」
「いや、騙されないぞ。最初に『どうせまた漫画でしょ?』って言った! 『どうせ』って言った!」
「細かっ! まったく、小さい男ね」
――断っておくが。
彼女の辛辣な物言いは、別にプリンを横取りされて機嫌を損ねているというわけではない。
彼女はこれが標準仕様だ。これで通常モードなのだ。
いちいち口が悪く、言葉に刺がある。そしてさらに悪いことに、そのような心ない罵りも、本人に悪意はないらしい。それは、この数カ月でわかったことだ。
「だいたい。僕が少し帰ってくるのが遅くなったとしても、メノウには関係ないだろ?」
少し言葉がきつかったかと思っが(メノウに対してはそんな気遣いをする必要はないのかもしれないが)、メノウは気にする様子もなく、むしろ心底意外そうに――
「え? 関係あるわよ。だって、私たちは一緒に住んでるんだから」
と不思議そうな顔をした。
言葉の通り、僕たちは同居している。僕は男で、メノウは女の子だから、同棲と言ってしまっていい。
「確かに一緒に住んでいる。でも、それだけだ」
決して恋人同士というわけではない。
「だって」と、メノウは口を尖らせる。「君がいないと、退屈なんだもの」
「ゲームでもしてろよ」
「もう、わからないわね。早く帰ってきてくれないと、寂しいって言ってるの」
一転して、しおらしい。何だよこのツンデレ具合。反応に困り、僕ははぐらかすように、言った。
「新妻か」
「似たようなものでしょ」
「違う」
まあ。とはいえ。
不思議な関係だとは思う。
僕達は男女であるが、一線を越えることはない。
家族のようでいて、やっぱり他人だ。
なりゆきで、一緒に暮らしているだけ。
そう、なりゆき。だって、彼女にはここ以外に、行くあてがあるはずもなかったのだから。
彼女との出会いは少々特殊なものだった。
彼女は僕の泥のような人生に突然現れた。
退屈で、自堕落的で、世の中の人間みんな馬鹿に見えて、独りで、特に楽しいことはなくて、特に悲しいこともない、そんな日々。
彼女と出会って、僕の世界は変わった。
変わったんだ。
出会いは3ヶ月前。
僕がノートに描いた女の子のイラスト。メノウはそれが実体化したものだ。