全1話『豚』 /ホラー
金属製の扉が開く音が聞こえた。
それは、俺のご主人が帰宅したことを意味する。喜び勇んで玄関に駆けつけると、彼女は上がり框に腰掛け、靴を脱いでいるところだった。
「ただいま。豚野郎」
彼女は目を細めて、俺の頭を撫でた。
俺は腰元あたりまで垂れ下がった長くて、つやつやの黒髪に鼻を突っ込む。鼻息を荒くすると、ほのかに石鹸と汗の香りがした。
「すぐご飯にするからね。豚野郎」
彼女はいつも俺のことを『豚野郎』と呼ぶ。
豚野郎。
何だかよくわからないけれど醜悪な響きだった。俺にはもっと格好いい名前があったはずなのに、記憶を遡ってみても、その名前で呼ばれた覚えはひとつとしてない。まったく、酷い話だ。
もしかすると、彼女は俺の知らないうちに俺の名前を『豚野郎』に改名してしまったのかもしれない。どんな手続きを踏めばそんなことができるかなど、俺にはとんと見当もつかないが、そう考えると筋が通るではないか。
まあ、まあ。
とは言ってもだ。
改名されようが何をされようが、そんなことはどうだっていいのかもしれない。ご主人たる彼女が『豚野郎』と呼ぶのなら、俺は『豚野郎』に違いないのだから。
ご主人は部屋着に着替えるとキッチンの前に立ち、慌ただしく料理を始めた。俺の目線からは彼女の手元の様子は判然としないが、俺の餌と彼女の夕食を準備していることはわかる。
それくらいは俺の頭でもわかる。
しかしながら、俺の餌が準備されていると思えばなおさら、この待っている時間がもどかしい。急かしたところで餌が完成するのが早くなるわけではないことは経験上わかっていたし、かといって手伝おうにも四足歩行の俺にはどうすることもできない。
結局リビングをうろうろと徘徊して時間をつぶした。
「できたよー」
急いで彼女のもとに駆けつけると、目の前に丸い容器が置かれた。中にはゴハンと具材を合わせて炒めたものが入れられていた。どちらかというと好物だ。俺は顔から容器に突っ込み口いっぱいに餌を頬張った。
容器はすぐに空っぽになった。ゴハンの最後の一粒をなめ取ったあと、俺は思った。
食べ足りない。
ご主人の出してくれる餌は、味付けはなかなかに良いのだが、いかんせん量が少なく、いつも物足りない。これは彼女に対しての不満のひとつだ。
もしかすると、彼女は俺の胃袋の容積を測って、わざとそれよりも少なめに餌の量を調節しているのではないだろうか。どうやったら胃袋の容積なんてものが測れるのか、俺にはとんと見当もつかないが、そう考えると筋が通るではないか。
彼女は俺とは違い、椅子に座り、テーブルに並べた料理を食べていた。それが彼女の食事のスタイルであることは知っていた。
白い足に鼻を擦り付ける。食べているものを寄越せという意思表示だ。テーブルの上面は見えないが、サクサクという小気味良い咀嚼音が先程から気になっていたのだ。どんな食べ物なのか実に興味がある。しかし彼女は、
「共食いになるよ。豚野郎」
と言うだけで、サクサクという音のする食べ物は貰えなかった。
彼女は、自分の台詞が気に入ったのか、言ったあとにクスクスと笑っていた。
不満と言えばだ。
もう一つある。
それは、冷房に関することだ。
今もまさにその問題に直面している。
もちろん、冷房は必要なものだ。以前、彼女が冷房を消して買い物に出かけてしまい、危うく茹で上がりそうになったことがあった。
必要であることは間違いないが、問題はそれが効きすぎているという点だ。壁の上部に設置された白くて四角い箱がゴウゴウと冷たい風を吐き出している。どうも彼女は暑がりらしく、設定温度が低いのだ。
しかし、少しはこちらの身にもなって考えてほしい。彼女とは違い、俺は裸で生活しているのだ。自分より体感温度が低いことに気が付かないのだろうか。
それとも俺は『豚野郎』だから、少々体を冷やしても風邪を引かないとでも思っているのだろうか。
まあ。
まあ、まあ。
不満はあると言えばあるが、それは些細なことだ。
俺がご主人のことが大好きなのは間違いない。優しいし、いい臭いだし、頭を撫でてくれるし、餌もくれるし、排泄物を片付けてもくれる。
だから、大好きだ。
きっと、ご主人も俺ことが好きだ。
彼女との生活は満たされていた。
満たされていて十全だった。
他に何もいらなかった。
彼女さえいればいいんだ。
なのに。
満たされた日々は唐突に終わりを迎えた。
ある日の夕食時のことだった。
いつものように床に置かれた餌を夢中になって頬張っていると、後ろで物音がした。まるで、人間が椅子ごと倒れたような大袈裟な音だった。
何かあったのかと気になったが、俺は食事を続けた。せっかくご主人が出してくれた餌を途中で中断するなんて、彼女に対して失礼だと思ったからだ。
最後の一欠片をなめとったあと、後ろを振り向いた。すると、ご主人が床に倒れていた。助けを求めるように、俺に手を伸ばしている。
畜生。こんなことなら、餌なんか放っておいて、すぐに振り向くべきだった。
どうしよう。
俺は混乱して、その場をグルグルと回る。
そうこうしているうちに、彼女は意識を失った。
どうしよう。どうしよう。
グルグルグル。
落ち着け。
落ち着くんだ、俺。
足りない頭で考えるんだ。
今、彼女を助けられるのは、俺しかいないのだから。
そして、思いついた。
もう、これしかない。
俺は床に横たわる彼女のポケットから、スマートフォンを取り出した。これは、外部と連絡が取れる装置のはずだった。
前足でタッチパネルを操作する。
番号入力の画面に切り替わった。
『1』『1』『9』と入力。
そして発信。
俺は、電話に出た人間にご主人の状況を伝えた。すぐに救急車を寄越してくれるということだった。
人間の言葉を発したのは久しぶりだった。このマンションでご主人に飼われるようになってからは初めてのことだった。
最後に、電話越しの相手から名前を聞かれた。俺は迷わずこう答えた。
「豚野郎です」
終