『沙弥は檻の中 #7』 /青春/ホラー
第7話 失ったもの
「ハ……ル……?」
ベッドを降りてその場に立つ。本当は今にも掴みかかりたい気分だったが、体力が付いていかなかった。
「久しぶり」
ハルは引き戸を閉めてから声を発した。そして、そこから動かず、俯き加減て私を見つめていた。その表情は申し訳なさそうにも見えたし、或いは哀れみも含まれているかもしれない。
「なんか……感じ変わったね」
ハルに会うことができたら言ってやろうと考えていた非難の言葉の数々とは別に、そんな感想が漏れていた。
「うん?」
「髪、染めたんだ……」
真っ黒だった髪は茶色がかっており、色の効果だろうか、以前に比べ軽やかに見えた。
よく見ると薄くメイクもしているようで、髪の色と併せて印象に変化を与えている。
まるで、イケてる女子みたいだ。
まるで、私じゃないみたいだ。
一瞬、髪の隙間から何かが煌めいたように見えた。
「それ、耳のところ」
「ああ、これ?」髪をかきあげる「ピアスだよ」
それを装着するための穴は、1カ月前にはなかったものだ。いくらなんでも――
「それは酷いんじゃない?」
「でも、可愛いでしょ? 彼もそう言ってくれてるし」
「可愛ければいいってものじゃ――え、今なんて?」
「みんな可愛いって言ってくれてるって――」
「『彼』って言ったわ! あなたは私の体で何をやっているの?」
「うーん。青春?」
ペロッと舌を出す。悪びれる様子はない。
怒りが込み上げてくる。ハルの行為はあまりにも勝手が過ぎていた。体の持ち主である私に断りもなく――いや、違う。ハルにとってはもう自分の体なのだと、そういうことなのだ。
冗談じゃない。
「私の体を返して」
抑揚なく要求する。元より要求はそれだけだった。詰問も、非難も、糾弾も必要ない。
「いやよ。サヤだってもうわかっているんでしょ? 私がどういうつもりなのか」
目眩がした。が、まあ、確かにわかっていたこと。しかし、それならば、なぜ彼女は今さらこの病室に舞い戻ってきたのか。
「けじめよ」
「けじめ?」
「私はこのまま水坂沙弥として人生を送ることにした。本当は、もう、ここに来るつもりはなかったけれど、それじゃあ、まるで騙したみたいで気持ちが悪いから、あなたにちゃんと納得してもらいに来たの」
「本気で言っているの? 納得なんてできるはずがないでしょう! お願いだから体を返して!」
「いやよ。だって私まだ、死にたくないもの」
死にたくないもの。
その言葉の意味するところを自分なりに解釈して、そしてそれが真実なら私にどういう未来が待ち受けているのかに思い至って――背筋が凍った。
「死ぬって……どういうこと?」
恐る恐る言葉を絞り出す。声は掠れていた。
「死ぬのよ。そのままの意味。それも、そんなに長くない。みんなは隠しているけど、わかるの。自分のことだし、何かを隠しているということに気が付けば、あとは想像が付くから」
「そんな……」
「病気にかかって、真っ白い病室の中で灰色の日々を送るようになってから私は初めて気が付いた。当たり前に過ごしてきた日常が、どれだけ尊いものだったのかということを。世界はもともとバラ色をしていたんだ。でも、諦めるしかなかった。仕方がなかったんだ。運がなかったんだ。そう、自分に言い聞かせていた。あの日、奇跡が起こるまではね」
「あの時、1日だけ遊びたいと言った時から、そのつもりだったの?」
「ううん。初めは本当に1日だけのつもりだった。でも、本当に久しぶりに自由になって、楽しくて、諦めるしかないと思っていたものがそこにあって――世界はバラ色に戻ったの。そして、考えてしまった。このまま、体を返さなければ、どんなに素敵なんだろうって」
その誘惑は甘過ぎた。優しく気丈なハルの人格を変容させるのに十分なほど。
理解はできるし、気持ちはわかる。でも、それじゃあ――
「私はどうなるの?」
「私は水坂沙弥として生きていくから、あなたは南沢春として死んで」
「……私はハルに比べたら全然しょうもない人間だけれど、それでも――」
私は私のことが嫌いだけれど、自分のことが大切でないわけじゃない。
「でも、そうしてくれなきゃ、私が死んじゃうんだよ。お願いサヤ。親友でしょ。代わってよ」
お願いされると、断れない。いつもそれで嫌な思いをしてきた。そして、ついには死ぬのを代わってだなんて、いったい何の冗談だ。
でも、変わると決めたから。今度こそはっきりと、自分の意思を告げるんだ。
「断る。あなたはもう親友ではないし、友達でもない」
精一杯睨み付ける。ハルはそれをつまらなそうな目で見ると、やれやれと、両手の掌を上に向けた。
「残念ね。こんなお別れは後味が悪いけど、しょうがないか。もう、二度と会うことはないかな。さようなら――『ハル』」
そして、引き戸を開け去っていく。私は追いかけようとしたが、体が思うように動かない。ドアまで辿り着いた時には、もう彼女の姿は見えなかった。
ふらふらとベッドに戻る。
腹立たしいけれど、悔いはなかった。はっきりと自分の態度を示すことができたから。
窓の外を見る。
敷地の外に向かってハルが駆けていく。厄介ごとを片づけたとばかりに足取りは軽い。
「あ――」
危ない。そう叫ぼうとしたが、声にはならなかった――なる前に、すべてが終わってしまった。
もう、どうしようもない。私にできるのは、ただ絶句することだけだった。
不用意に道路に出たハルに、猛スピードで走行するトラックが突っ込んだ。
大袈裟なクラクションと急ブレーキの音が聞こえたのは、ハル――私の体が宙を舞ったあとだった。私の体は十メートルほど吹き飛んだあと、無抵抗に地面を転がった。
遠くて定かではないが、いろいろと大変なことになっているようだ。体は奇妙にねじれているし、頭部も損傷が酷い――あの飛び出ている何かが、脳ミソでないことを祈るばかりだ。
体の裂け目から止めどなく溢れる赤い液体が池を作っていて、その中心でピクリとも動かない残骸。
疑う余地もない。
衝突からわずか1秒の間で、私の体は肉塊となった。もう生物として機能することはない。
そして、ハルは――もちろん、死んだ肉体に魂が宿ることはない。